【小話】橙の回想【更新】

【橙の回想】

「・・・いらっしゃいませ。」

不機嫌な顔色を隠しもしない黒蝶堂堂長は、店頭に設けた特価品の並ぶワゴンの脇で、道行く人々に声をかけている。西の空は赤紫に染まり、湿度の高さは残るも、いささかの風が吹き抜ける通りは、昼間に比べればはるかに快適だ。堂長――黒川はちは少し前、「なんで、浴衣なんざ着らねぇとならねぇんだ」と、ひとりごちたことを思い出す。灰色に深い紅の差し色が入った浴衣姿の彼は、恨めしそうに向かいの弁当屋を見やる。そこには、彼の同居人が、浴衣や甚平姿の客にリンゴ飴や綿菓子を笑顔で振る舞っている姿がある。サザンカ模様のあしらわれた藍色の浴衣をまとう彼が左右に動けば、自然と目で追ってしまう。

「・・・暇だ。」


この状況には、理由がある。

向かいの弁当屋の主人は、時折黒蝶堂の若者たちの生活水準を見かねて、彼らに差し入れをすることが多々あった。今日はその礼も兼ね、同居人のしろが弁当屋の手伝いを願い出た、というわけだ。通りに面して屋台を出し、繁盛する弁当屋とは対照的に、古本屋である黒蝶堂には客が来るはずもない。今日は遙光の街の夏祭り最終日であり、カラコロと音を立てながら、櫻坂神社で行われる花火大会に向かう誰もが軽装であるから、本を買おうという奇特な人間は一人もおらず、ちらりと一瞥をくれては通り過ぎていく者ばかりである。

ならば、なぜこんな状況で、黒蝶堂が開堂しているのかというと、

――ことの次第は、今日の昼間にさかのぼる。



「今日は、外で待機して頂戴。」

棚の上の少女は堂長席にて頬杖をつく堂長に告げた。「お祭りですね!」と、夏祭りの始まる1週間前から店内を飾り付けているしろが手を止め、人差し指を立てた。「・・・待つって、何をだ?」この暑い中をか?と、あくびをかみ殺すはちが尋ねれば「花火ですよ、花火!」今日、外で待つものと言えば、それしかありませんよと、しろが騒ぐ。未来予測少女のゆりは膝の上の本を閉じ、

「来訪を待つの。それと・・・」

ふわりと床に降り立ち、「準備した衣服に着替えて頂戴」と奥間を指さしたのであった。



「・・・で、たたき売りってか。」

ゆりの指示通り、堂内から運び出したワゴンに古本を積み上げたのは夕方のことだ。並びはどうでもよいが、一番上の書物だけは指定されていたため、それを平積みにする。その表紙と著者を見、彼は顔をゆがめる。「今日みたいな日に、わざわざ買わねぇよな・・・」との、漠然と抱いたはちの懸念は現在進行形で的中し続けている。

行列が途絶え、道行く人々の姿も徐々に減ってきた。堂前に灯をともし、イスに座って、団扇で顔を扇ぐ。「本当にくるのか・・・?」はなから、ゆりの未来予測なぞ、ただの偶然だとみなし、その能力を微塵も信じていないはちにとって、来もしない客を待つのは本当に気力のいることだ。

その苦行が報われるときが来た。

はちがイスにて船をこぎだした頃、一人の男が千鳥足でフラフラと通りを横断し始めた。その危なっかしい足取りを、覚醒したはちは目を細めて観察する。紅潮している頬の原因は、右手のワンカップ瓶だろう。左手にはホオズキの実が鈴なりになった枝を握っている。店に用事があるのか、はたまた、たまたま寄りかかれるスペースがこのワゴンにあると考えついたのか、結果的に店の前で彼は倒れた。「だ、大丈夫っスか?」はちが寄れば、彼はワゴンに手をかけ、体を起こした。

「母ちゃんが好きだったんだよな、この花。」

甚平姿の彼は、カップ酒を傾け、目を更にドロンとさせると、本の表紙を覗きこんだ。「名前は知らんが」と、欠けた前歯を覗かせ笑う

「これは、絵か?随分と、はっきり見えるや。」

「・・・見ての通り、これは写真っスよ。」

はちの説明に、「色が付いてるじゃねぇか!」と、彼は驚き、目で呼吸をするように両目を見開いて、指先に力を入れた。彼の握りしめる、一冊の写真集はまさに昼間、ゆりが「一番目立つところに備えて頂戴」と指示した本そのものであるから、はちは目眩を覚える。男は懐から財布を取り出し、怪しげな手つきで中身を確認しつつ言う。

「もうすぐ帰らねぇといけないからな。」

帰りは車があるから、ここで全部使っちまうかと、彼は札束をぽんとはちに手渡した。思わぬ展開に、「は・・・え?」と、目を白黒させるはちであるが、男は意に介せず

「すっかりばばあになったのに、毎日欠かさず持ってくるし。膝も悪いのによ。」

ぷれぜんとってやつをすりゃ、少しは恩返しになるかねとはちに問うた。「・・・そりゃ、まぁ」曖昧に答えるはちに、

「アンタも、生きてる内にやっときな。」

孝行したいときに親は無し、って言ってたろ。逆だってありうるのさ。

「感謝したいときに、感謝する。今あるもんは、当たり前にあるもんじゃないって、俺は----してから、初めて気が付いたのさ。」

光が明滅し、重量が体を揺らす。男の声は、途中で遮られた。同時に空を見上げる。「でかい花だ・・・おっと、時間がねぇ。」手を挙げ、やけに姿勢良く敬礼した男は、写真集を懐に収め、色鮮やかなほおづきを手に、やはりふらつく足取りのまま、雑踏へと消えていった。

夜空に花火の広がる、黒蝶堂の屋上にて、

「・・・説教くせえ客だったな」

彼が帰った後、はちは店を閉めた。そして、屋上に上がった。そのほぼ中央に座り込むと、懐の、ずしりと重たい感覚を思いだした。

「ただいま帰還しました!」

忙しすぎて、倒れちゃうかと思っちゃいましたと、鼻歌を歌いつつ帰ってきたしろに、はちは札束を渡した。しろは「どうしたんですか、いったい!」と青い目を瞬かせ、それをじっと見つめた。そして、

「これ、”小銭”ならぬ”古銭”ですよ!」

喜々として言い放った。
漢字の見える目を持つはちは、すぐにしろの言わんとしていることがわかった。確認してみると確かに、客の払いはすべて、今はとっくに流通していない10円札によるものであった。

「大金持ちになったつもりになれましたね!」と舌を出すしろは、たこ焼きやら唐揚げやらかき氷やらを、落胆するはちの前に広げた。「・・・なんでも売ってんだな」「給料の代わりにって言って、買ってきてくれたんです」「もらったら礼にならねぇだろうが」「持ちつ持たれつですよ」「プラマイゼロを目指すべきだろうが」世話になりっぱなしだろ、と呆れるはちに、「さぁ食べましょう!」と両手を合わせたしろであった。

花火が終盤に近づいた頃、「ところで」と、しろのマシンガントークを遮って、はちは呼びかけた。視線の先には、じいと空に見入る少女が鎮座している。

「浴衣に着替えさせられた理由が、未だにわかんねぇんだが」

少女が目をはちへと移す。
光を反射して、彼女の顔色の白さが闇に浮かんだ。

「異国で同胞に巡り会うためよ。」

ゆりは続ける。

「未来は欠片の集合で積み上がるの。」

だから、貴方たちの衣服でさえも、彼に会うための重要な欠片だったということ。「わかったかしら」と平坦に告げるゆりに、

「・・・謎が、深まったんだが。」

僕は少しはわかりましたよと胸を張るしろの横で、寝転がり、光の大輪を全身で感じるはちは、

「・・・わかんねぇことばっかりだっての」

ため息とともに、本心を空へと吐き出した。
空には大輪が咲き、光の粒となって消えた。

【了】

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【小話】紅色ハードル【更新】

【紅色ハードル】

「なにを思って、この競技を選んだんだろうな。」

朝方に家庭菜園で収穫したトマトの赤をチェックする黒川はちは、眼鏡越しの瞳で世界規模の体育大会を鑑賞している。地球上のどこかで開催されている世界ナンバーワン決定戦にエントリーした者たちを見て、ふとわき出た疑問を口にした。時刻は午後7時50分、テレビからは異国の焼けるような日差しが、黒蝶堂の脇に設けられている居住スペースの壁に容赦なく突き刺さる。

「もれなくムダなくムキムキです。」

はちの向かいで力こぶを作るのは、同居人の氷山しろである。「レースが見えねぇ」と、手首のスナップを利かせ彼を追い払ったはちは続ける。

「・・・鍛えてねぇと、国の代表になんざなれねぇだろ。」

「そうですかね?」

「・・・そりゃそうだ」

はちの断定に、「僕思うんですけど」と、今度はしろが言葉を繋ぐ。

「あのムキムキの方たちの中に、ごく普通のスーツ姿のお父さんとかお母さんとかが居たら、やっぱり応援しちゃいますよね。」

もしもそんな人たちが優勝したり、いい記録を残したりしたら、子ども大人も、かなり勇気づけられると思うんです。

しろは頷き、「どうでしょうか!」とはちに机越しに詰め寄る。2秒ほど思案したはちは、

「・・・んな奴らは、プロじゃねぇんだから、勝てるわけがねぇだろ。」

「自分の土俵を離れるなってんだ」と、右手のトマトを蛍光灯に翳した。上々の出来だな、と頬がゆるむ。感慨に浸るはちをよそに、

「この競技なら、僕がコーチをしてもいいですよ。」

画面を指すしろである。彼の指先を追うはちの目が、生中継の予定一覧にある”ハードル跳び5000m”に止まる。

はちは深い溜息を吐いた。

「・・・日々、障害物ばっかりだっての」

まるで自分が選手で、ハードルを置くのがこいつみたいだなと、首をすくめる。

――オレも人知れず選手だったのか…?いや、まさか。なにを惑わされているんだオレは。だが、まてよ。仕事とこいつの面倒に付き合わされるのがハードルと思えば・・・

そんなことを考え始めて数分後、

「野菜で遊ぶんじゃねぇよ!」

はっと我に返った彼は、しろの手から収穫カゴをもぎ取った。

向かいに座る白い彼は、トマトを絶妙な色合いのグラデーションに並び替え、見事なバランスでアーチを机の上に作り上げていた。

「ハードルが高ければ」と言うしろは、アーチを倒さずにトマトを一つ抜き出す。そして、

「食べちゃうか、土に埋め直せばいいんです!」

と笑い、それを丸々かじった。赤い汁を飛び散らせ、咀嚼しながらしろは続ける。

「食べてみないとわかりませんからね!」

「勝手に食ってんじゃねぇよ!第一、それは土の中で育つ代物じゃねぇっての!」

はちはうなだれるも、「おいしいですよ」とのしろの感想に「・・・当たり前だろ」と自らも一口頬張るのであった。


【了】

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【小話】七色行列と二択道【更新】

【七色行列と二択道】

行列ができている。
七番目の客曰く、

「ここは、雑誌で紹介されていた」

六番目の客曰く、

「ここは、テレビで絶賛されていた」

五番目の客曰く、

「ここは、ネットで中傷されていた」

四番目の客曰く、

「こんな趣のあるところが、あったなんてね」

三番目の客曰く、

「この店の店長は、帰国子女らしいよ」

二番目の客曰く、

「確か、とても歴史があるとかなんとか」

一番前の客曰く、

「店長は、君のお母様なのかい?」

一番前の客人を出迎えた者は、

「・・・その店は、街中の、三列奥に入った通りっス。」

生気の宿らない瞳と、ひきつる唇を携えた営業スマイルで吐いた。

――なるほど。どおりで看板が違うと思った。

――なんと、わかりにくいところにあるのね。

――なぜ、もっと早く言ってくれないのか。

――なぜか、勘違いしていたみたいだな。

――なんでかな、地図はここになってるんだけどさ。

――なにはともあれ、ありがとう。

事情はそれぞれ、助言後の反応もまたそれぞれである。
助言する者は不思議に思っている。来るもの来るもの、別の店を目的としているのに、なぜか皆が皆、”この場所”を正解と信じて列に並んでいるのである。こんなことは、今まで無かったというのに、どうしたことなのか。

数分後、すべての客を正しい道に先導した者、つまり

黒蝶堂堂長・黒川はちは堂内に戻り、自らの席に着いた。

「あれだけいて、うちの客は、一人もいねぇって・・・」

頬杖をつき、眉間のしわを指でなぞる。がらんどうの堂内を見て、

「・・・落ち着くな。」

ぽつりと独り言を言うのである。

「案じることはないわ。」

彼の耳に、書物を広げる少女の言葉が届く。

「貴方は堂長。人間と憑者の関係を円滑にする役目よ。」

――本屋が繁盛しなくても、別に構わないわ。

少女・ゆりが真面目くさって言うものだから、

「本屋をがんばるに決まってんだろうが。」

――わけのわからねぇ事象に巻き込まれるのを、本業として認めるわけにはいかねぇ。

強い語気で彼が言うと、

「その調子でいくなら、貴方の未来も明るくなるわ。」

ゆりは快活さのまったくない声音で発し、

「・・・この調子でいかねぇと、暗い未来しかねぇみたいじぇねぇか。」

そんなオレが、なんで人様の道なんざ案内しねぇといけねぇんだと毒づくのであった。


【了】

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【小話】透明の毒【更新】

【透明の毒】

はちは目を見開き、開けたばかりの扉を閉めようとした。しわだらけの茶けたスーツにとんがり帽の痩せた男が、店先で俯せに倒れている。その骨ばった手が、一冊の本を掴み、左手の人差し指が黒蝶堂を指さしていた。はちが店の奥間に引き戻ろうとした時、

「――活字中毒なんだ。」

掠れた声が耳に届いた。「過剰摂取気味だ」と、喘ぎつつ、はちの右足首を握りしめる手に一層の力が入った。

振り返ったはちの眉は顰まり、目は通常の半分の大きさになっていた。

「・・・水でも飲んで落ち着けばいいんじゃないっスか?」

ため息をついた彼の脇から、白い頭が覗いた。驚く隣人をよそに、白い青年は、透明のグラスを差し出す。

「少しずつ体内に取り込めば問題ないですよ!」

「ゆっくり飲んでくださいね」と、しろは人差し指を振りつつアドバイスを送る。小声で、はちはしろに詰め寄り問いかける。

「・・・それは、”ただ”の水か?」

「もちろん、”無料(タダ)”です。お代は入りませんよ!」

「いや、そっちの意味じゃなくてだな・・・」

いったい何の成分が入っているのか、推測も保証もできないはちである。同居人の彼でさえ、しろの行動は読めない。だが、彼の懸念もむなしく、客人は半ば奪うようにしてグラスを手に取った。

「なんでもいち早く、味わいたいんでね。」

新刊しかり、新商品しかりと冗談めかして微笑む。

「・・・よく吟味しねぇと、体に毒かも知れねぇっスよ。」

はちの隣人としての忠告もむなしく、彼は透明の液体を一気に流しこんだ。

「毒を以て毒を制す、書を以て心を制す、だ。」

「・・・いや、まぁ」

――毒とまでは言わないんスけどね。

その言葉を飲み込み、頬を掻いたはちは、堂内に戻った。そして「液体に溶ける薬・毒」という医学書を本棚から引き抜き、パラパラとめくった。電波な発想力を持つしろが、これを参考にするとは思えないが、もしもの時の対処法が載っているかもしれないと思ったからだ。

すると、いつの間に入っていたのか、男が堂長席に体を乗り出し、痩せこけた青白い顔の中で、異様に輝く目を本に注いでいた。「・・・これでいいんスか?」と尋ね、大きい頷きを受けたはちは、古いレジスターを働かせて会計をし、客に書物を持たせた。礼を告げた男は、帽子を深々と被り直し、

「最後は蓄積した文字に埋もれて、息を止めたいね。」

商品を胸にしっかりと抱き、堂々と言い放った。

「・・・圧死なら、出来るかもしれねぇっスね。」

客の背を見送りつつ放った言葉は、彼に届いたかどうか。堂長席で頬杖をつくはちに、

「思想を文字におこしたがゆえに、命を奪われた者もいれば、書物を持つがゆえに命を落とした者もいるわ。」

書棚の上からの声が囁く。

「怖いですねぇ」と笑うしろと、「いつの時代の話だっての」と呆れるはちに

「書物は人を惑わす宿命なの。」

棚の上の少女は、淡々と告げた。

「摂取しすぎて中毒になるのは、水も本も同じですね。」

少し多めに入れてみましたけど、きっと大丈夫ですよ。
病は気から、ですから!

と、まぶしい笑顔を放つしろに、ため息で応じたはちは

「・・・中毒っつっても、そういう意味じゃねぇだろ。」

死因が活字中毒なんて、聞いたことがねぇよ、と続け、今度は「世界の死因ベスト300」の目次を開いてみるのであった。


【了】

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ジャンル : 小説・文学

【小話】金の切望、銀の記憶【更新】

【金の切望、銀の記憶】

学友らと別れ、私は街を散策している。特に目的があったわけでもなく、ただ足の向くままにアーケードをぶらついた。どこをどう通ったのか定かではないが、店舗の集団から距離を置いた、人影のまばらな通りの一角に存する本屋の前に到達し、何気なくその敷居を跨いだ。

店はざっと見通せるほどの奥行きで、最奥に置かれた机に黒電話のあるのが印象に残った。帳簿をめくっていた着物姿に銀髪の人物が顔を上げ、「いらっしゃい」と声を掛けてきた。私は会釈をし、書棚に囲まれた結果構成されたとしか思えない細い通路を、注意して進むことになった。入口の正面にしか道が無く、その唯一の隘路には高価そうな壷や、雑誌の束、怪しい雰囲気の人形や複数本の巻物が転がっており、それらを踏まないように歩かなければならなかった。書棚は見上げると首が痛くなるほど背が高く、作者順かと思えばタイトルのあいうえお順だったり、背表紙の焼けている物同士の間に、光沢のある、異様に新しいものが挟まれていたり、実用書と小説が折り重なっていたり、外国文学と日本の伝承古典とが入り交じっていたりと、ルールの無さがルールなのか”整然”と”散らかって”いた。レコードが鳴り渡り、私以外に客の無い店内ではあったが、私は特段の居心地の悪さを感じることもなく、興味深く店内を巡った。

しかしそれから間もなくのことだが、不思議なことに、私は察してしまった。
自分の欲する書物が並んでいないことを、何かの拍子に感じたのである。その不思議な直感に加え、学校帰りで疲れていたのともあり、私は店を出ることにした。体をようよう反転させ、足下のチョコレートの絵が描かれた絵本を避けて残る狭いスペースに踏み込んだとき、私はがくんと傾き暗転に呑み込まれた。足を踏み外した。そこには床板がなかった。ないと気づくのが遅すぎた。私は宙に足を取られ、重力に引きずられ、暗闇に落ちていった。

柔らかい布のような物にくるまれ、墜落の衝撃を免れた私は、しばしの間呆然としていた。そこは地下室なのか、窓が一つもなく、人の気配も無ければ光の一筋さえ走っていない空間であった。正気に戻り、立ち上がって一歩踏み出す。と、ローファーのつま先に触れる物があった。しゃがみこみ、感触を頼りにそれを手に取る。掌から溢れる厚みと質量、凹凸のある面から察するに、おそらく立派な装丁のハードカバー本であろう。それを胸に抱え、右手で進路を文字通り”手探り”で進んだ。ここが部屋ならば必ず出入り口があるはずだとの直感があった。

しばらく進むと、突然指先が冷たい何かを探り当てた。ドアノブのような形のそれとの出会いに、困惑し当惑した。部屋の中に部屋があるなど、想像もしていなかったが、その考えはすぐに霧散した。どうやらこれまで歩いていたのは廊下だったらしい。意を決し、ノブを回して扉を押す。
すると、そこには、頭に大きな赤いリボンをつけ、切り揃えられた黒髪の美しい少女がいた。サイドテーブルのランタンから漏れる明かりで書物をめくっている。彼女は紙面から顔も上げずに、「来ると思っていたわ」と、恬淡と言い放った。呆気にとられた私は、「ここでなにを?」とどもりつつ尋ね、少女の失笑を買った。

「此処は本屋で貴方は客人。未来予測は簡単ね。」

「・・・でも、ここに私の欲しい本は、ないみたい。」

「それは困るわ」血の通っていない人形のような青白い顔色で、表情筋一つ動かさない様は、到底困っているようには見えない。だが、彼女はここの人間で、本を買わない客の相手など、無意味なのだろう。私は不用意な質問を詫びようと頭を下げた。
だが彼女は「その子の存在価値が無くなってしまうわ。」と、私が抱えている書物を見もせずに指摘した。「その子」と彼女が言ったとき、おそらくは私の錯覚に違いないが、その本が小動物のごとく小さく震えた。反射的に、腕に力を込めた。辺りは薄暗く、その本の装丁も内容も著者もジャンルもわかりはしない。当然、買うつもりもなかった。検討するための要素が、なにもなかった。

しかし、そのときにはすでに、私は口を利くことも、首を左右に振ることもできなくなっていた。

金縛りだ。

私は、その場に立つ銅像のようになっていた。少女の目が赤く光っているのを、はめ込まれたガラス玉のような、動かない目で見た。彼女が椅子から立ち、私の方へゆっくり近づいてくる。「人間が生まれ老いて死ぬのを越えて、ね。貴方が見つけられないのなら・・・」

動かない腕に力を入れようともがいた時、私の腕から本が飛び去った。

覗きこんでいる彼の目が、美しい弧を描いた。「目を覚ましたかい?」「ここは、どこですか?」私の発言に対する彼の笑みは、黒髪少女の面影があった。はっとし、辺りを見渡す。だが、「夢でも見ていたに違いないさ」との言葉が、私を現実に引き戻した。急に倒れたから心配した、と、彼は席に座り直し、私は体を起こした。背中が痛い。私は寝心地の悪いベッドに横たわっていたようだ。見ると、散らかって床も見えなかった商品の山を通路の脇に強引に寄せて積み上げ、その上に広めのマットを被せてベッドを作ってくれたようだ。「暑いから、幻覚が見えそうなほどにね」と、店の主人は涼しい顔で答えた。近くで見ても店主は若いのか年を重ねているのか、よくわからなかった。老人のようにも、兄のようにも見えた。私はベッドから降りようと、両手を即席寝床に突いた。と、その時、指先に何かが触れた。どうやらそれを、枕として使っていたようだ。いざ明るい場所で手に取ると、やはりわずかに振動した・・・ような気がした。

私がその本を使って、世界を変えていくのは、それからしばらくしてのことだ。規律上の守秘義務があるため、詳しくは伝えられない。おそらく信じてもらえないだろうが、今も私の孫が、その古びた本を毎日磨いては・・・被害者に失笑されつつも、ページをめくって世界を変えている。

願わくば、あの地下室のある店に、あの店主と少女に再会したいものだ。


【了】

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

説明

秋雨

Author:秋雨
人間と憑者のライトホラー物語。

現実世界その他諸々の事象とは、一切関係ありません。著作権は放棄していません。なにかありましたら拍手からお願いします。

【管理人】

秋雨。成人済。

【主な登場者紹介】

黒川 はち

古書店黒蝶堂堂長。
気苦労の絶えない受難者。

氷山 しろ

黒蝶堂副長。
電波的言動の目立つ青年。

ゆり

黒蝶堂憑者。
冷静沈着な少女。

深見ヶ原 牡丹

深見ヶ原墓地憑者。
猪突猛進イノシシ娘。

カコ

川辺の憑者。
人間嫌いで鬼桐の部下。

鬼桐

煙草が手放せない隊長。
熱くなると誰にも止められない。

黒川 伊織

はちの祖父で先代堂長。
3年前に他界。

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