【小話】杏仁豆腐の飛び降り台【更新】

世の中のある程度のことは既に知り尽くされていて、それに対応するための書物も出版されている。今更、門外漢の素人が、なにを考えても意味がない。だとすれば、何事も、専門家に任せるのが一番の対処法だということは異論を挟む余地はない。だから、目の前でビルから飛び降りようとしている人間がいたとしても、警察に任せるのが一番の選択、ということになる。

だが、問題は飛び降りようとしている場所にある。黒蝶堂の屋上の縁に人物がいて、それに対峙するのは自分だけというシチュエーションにおいて、はたして警察を頼れるのかどうか。当該当者に全くの見覚えがないとしても、自分の家から飛び降りられると、気分が悪いと言うものだ。

青白い顔で、唐突な演説は始まる。

「人には体と心がある。」

あたりを観察する。近隣の建物の屋根を伝って黒蝶堂に辿り着いたのだろう。ご苦労なことだと、テレビ越しの視聴者のように思う。

「体が丈夫でも、心が死んだのなら、呼吸はただの苦行だ。」

「・・・ちょっと待て、話せば分かる。早まるんじゃねぇよ。」

どこかで聞き覚えのある言葉を口にしてみる。しかし、人物はうっとりと瞳を細め、靴を脱いで踵を揃え、言葉を継ぐ。

「でも、僕は嬉しい。だって、自分の手で自分を終わらせることが出来るんだから。」

人物の背後には、杏仁豆腐を濁らせたような空があるだけだ。柵はない。両腕を横一杯に広げて体を揺らす様から、制止の声は届いていないのだろう。惑える足取りで、縁をなぞっていく。もはや実力行使かと、足を一歩前に進めると、「邪魔すんな!」と、鬼のような形相と共に、身のすくむような怒号が飛んできた。冷や汗が頬と背中を伝う。なにも考えられない。口の端を目の下まで引き上げた、見知らぬ志願者を留める言葉など、持ち合わせがなかった。

そのとき、あぁこれは本当にドラマだったのだ、と思いこませてくれる光景が広がった。

人の額に穴が開いた。遅れて耳に追いついた、宙を切り刻む弾道の破裂音と、赤い液体の噴出が、ほぼ同時に知覚された。鮮やかな液体が、眼鏡から手の甲から足先までおしみなく降り注いできたが、指先一つ、動かせない。影はただの物体になり、音もなく外側の世界へ落ちていった。

「じゃかしいわっ!がたがたがたがたがたがたとっ!」

青筋を浮かべた彼に視線を送れたのは、その声がひどい存在感を持ち、背中を押さえつけてきたからだ。その手袋をした手には、黒光りする短筒が煙を噴いている。煙を観察していると不思議と心が落ち着き、我を取り戻すことができた。事態をのみこもうとする。だが、いくら挑戦しても息苦しい思いは消えない。反対に、食べたばかりの昼食が喉元までこみ上げてきた。掌を口にあてると、鮮やかな赤が付着していることに、ようやく理解が追いつく。吐き気をおさえ、すくむ足を引きずる。見なければならない。彼のしでかした結果を見つめなければならない。強い意思が、足を動かしていた。脳が混乱していたのだろう。縁まで到達し、戸惑う暇なく地上を見下ろす。

すると、眼下の白い彼と目があった。

「はい!大丈夫ですよ。」

彼の近くには、どこから取り出してきたのだろう、巨大な競技用のトランポリンが設置されていた。その中央付近で、額に穴を開けられた人間が横たわっている。疲れ切った体を、スプリングの効いたベッドに深く沈めているかのようにも見えた。
しろは手を振り、朗らかに笑う。

「大丈夫、生きてますよ。まだ。」

そこで、今度こそ本当に、すべてを悟った。

これほど大がかりで、信じられない演出が出来るのは、身近にはたった一人しかいない。

腰を抜かし、へたりこんで呟く。

「・・・勘弁してくれよ。」

死のうと生きようと個人の裁量の範囲なのだから、どちらをどこの誰が選ぼうと関心はない。だが、場所だけは口出しさせてほしい。

「志望者でも、死亡者でも構わないわ。」

彼女は、音もなく鬼の隣に現れた。黒蝶堂の憑者とのたまう演出家の少女は、共演者の鬼を切れ長の瞳で見上げた。

「志願者の脳裏に、最期に過ぎった景色を見たわ。」

説得できる要素ではあるわと、恬淡と述べる。鬼は、

「私は、個々の人間がどうなろうと関係がないっ!」

こめかみに青筋を浮かべて、そっぽを向いた。彼らを、ただ呆然と見つめる。銃口を覗く瞳は、金の輝きを放っている。彼は、どことなく黒蝶堂を目の敵にしているようであるから、ボランティアでここに来たわけではないだろう。彼女の”なにかしらの予測”との交換という対価をもって、この舞台に上がってきたとしか考えられない。

「あとは任せたわよ、堂長。」

「・・・面倒くせぇんだよな。」

身に降りかかってきた赤に鼻を近づける。予想通りだ。鮮血なんかじゃない。どこにでもある、赤黒いインクに違いない。サイレンは未だ、耳に届いてこない。

スポンサーサイト

テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

コメントの投稿

非公開コメント

説明

秋雨

Author:秋雨
人間と憑者のライトホラー物語。

現実世界その他諸々の事象とは、一切関係ありません。著作権は放棄していません。なにかありましたら拍手からお願いします。

【管理人】

秋雨。成人済。

【主な登場者紹介】

黒川 はち

古書店黒蝶堂堂長。
気苦労の絶えない受難者。

氷山 しろ

黒蝶堂副長。
電波的言動の目立つ青年。

ゆり

黒蝶堂憑者。
冷静沈着な少女。

深見ヶ原 牡丹

深見ヶ原墓地憑者。
猪突猛進イノシシ娘。

カコ

川辺の憑者。
人間嫌いで鬼桐の部下。

鬼桐

煙草が手放せない隊長。
熱くなると誰にも止められない。

黒川 伊織

はちの祖父で先代堂長。
3年前に他界。

メニュー
twitter
    更新情報配信中