【小話】ドーナツはかり【更新】

そう、まさしく彼はこのとき振り返るべきだった。目先の恐怖ではなく、背後に忍び寄る黒く白い陰に。彼はささやかな違和感を気に留めることもなく日々を浪費し、ついぞ、その日はおとずれた。
ありふれた朝、ありふれた人混み、ありふれた格好、ありふれた思考、ありふれた感情、いつもと違う箇所を探せと言われたとしたら、思案するに違いない。

そんな日常の中で、自分が自分を失うことになるとは、ゆめゆめ想像だにしていなかった。



右から左へ、左から右へ働いていた眼球が止まり、沈黙した。点灯していた海沿いの目映い街灯が、停電によりすべて落ち、車一台通らない、暗い路地となった。彼の手元に視線をずらす。両手を繋ぐのは右端の白い切れ端が終わりを示す、指の一節程の幅である帯状の透明なテープで、胸の前で緩やかにたわんでいた。

「途切れちゃいました。」

透明の面には、油性の黒いペンによる細やかな文章が書き連ねられていた。たとえるなら、巻き尺のような形状の書物である。ただしメジャーのようにボタン一つで巻きとれる機能はついておらず、文字の裏側にはテープと同じく貼り付けるための糊が塗布されていたため、読了した箇所から順繰りに、指や手首に巻き付けていく必要があった。珍しいが、作者の意図の掴めない書物だ。

「読めなくなっちゃいました。」

話を夢中で追っていたしろは、右手に無言の白い紙という尻切れを、左手に読後の残骸を残し、がっくりと肩を落とした。

「案ずることはないわ。」

ふと、頭の上から少女の声が舞い降りてきた。次いで、その足が地上に着く。少女・ゆりはしろの前に進むと、くるりと人差し指を舞わせた。すると、彼の左手は瞬く間に自由の身となり、書物は元の形に戻った。

「時間を巻き戻したみたいですね!」

しろが、ドーナツ状になった物語を指に掛け、くるくると回せば、

「貴方が居た時間までは奪わないわ。」

ゆりは黒目がちの瞳で、じっと彼を見上げた。

「もちろん、はっきり覚えています!」

しろは人差し指を立て「はちも一度読んでみてはどうですか?」と、頭上に電灯を灯した。
その様を見、

「・・・これ、途中で終わってんだろ?」

「・・・元に戻さなくても、未完成品なら商品になりゃしねぇよ。」と息を吐く。
すると、しろは「価値は、それだけじゃないですよ!」と腕を振り、ゆりは相変わらずの涼しい表情で

「続きは、読者の中にあるわ。」

何十回でも何千回でも、巻き返す価値はあるのと、口角をあげた。

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テーマ : オリジナル小説
ジャンル : 小説・文学

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説明

秋雨

Author:秋雨
人間と憑者のライトホラー物語。

現実世界その他諸々の事象とは、一切関係ありません。著作権は放棄していません。なにかありましたら拍手からお願いします。

【管理人】

秋雨。成人済。

【主な登場者紹介】

黒川 はち

古書店黒蝶堂堂長。
気苦労の絶えない受難者。

氷山 しろ

黒蝶堂副長。
電波的言動の目立つ青年。

ゆり

黒蝶堂憑者。
冷静沈着な少女。

深見ヶ原 牡丹

深見ヶ原墓地憑者。
猪突猛進イノシシ娘。

カコ

川辺の憑者。
人間嫌いで鬼桐の部下。

鬼桐

煙草が手放せない隊長。
熱くなると誰にも止められない。

黒川 伊織

はちの祖父で先代堂長。
3年前に他界。

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